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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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南蛮船来航波止場跡

                            長崎県キリシタン関連史跡

天正遣欧使節が旅立った港


開港当時の長崎港があった場所。
今は埋め立てられて随分と地形が変わり、港だった所はオフィス官庁街となっています。


南蛮船来航波止場跡


「南蛮船来航の波止場跡」の石碑は、長崎県庁第三別館の脇にある緑地に建てられており、横に説明板が添えられています。

大村純忠が長崎の開港を認めたのは1570年。港にはポルトガル船が定期的に来航するようになり長崎は繁栄していきましたが、大村純忠の勢力は安定したものではありませんでした。

1572年には後藤・松浦・西郷が大村の三城城を攻撃し、翌年も西郷は大村を攻め、純忠が苦戦しているうちに深堀が長崎を攻撃。長崎最初の教会を焼き討ちしました。

こうした状況の中、純忠は長崎をイエズス会に寄進するのが最も安全であろうと考えて決心。その申し出を聞いたイエズス会のヴァリニャーノ神父は検討に検討を重ねた結果、申し出を受けました。

それから間もない1582年、ヴァリニャーノは天正遣欧使節の少年たちとこの港を旅立ちました。九州のキリシタン大名である大村純忠、有馬晴信、大友宗麟の名代として、正使に伊藤マンショと千々石ミゲル、副使に中浦ジュリアンと原マルチノが選ばれて派遣されましたが、このうち3人は大村氏ゆかりの者たちでした。

彼らはローマ教皇に謁見し、ヨーロッパにセンセーションを巻き起こして8年5ヵ月後にこの港に戻ってきました。しかしその間に日本は大きく変わり、すでにキリスト教禁令のお触れが出されていました。キリシタン迫害の嵐が吹き荒れる世となり、宣教師たちは国外に追放されていきました。

これらのことはすべてこの港から始まり、起こったことでした。



南蛮船来航の波止場跡

現在の長崎港



 
現地への行き方
路面電車「大波止」駅から徒歩3分。石碑は長崎県庁第三別館(長崎市江戸町2-1)の脇に建てられています。


訪問の際は現地の案内や地図で所在地を確認してください。

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