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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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牢屋の窄

                            長崎県殉教地、キリシタン関連史跡

久賀島の殉教地


牢屋の窄(さこ)は、久賀島のキリシタン42名が殉教した牢屋跡。

牢屋があった場所には殉教者の名が刻まれた墓碑が並び立ち、真ん中に建てられた「信仰之碑」の台座には入牢させられた者たちの名が記されています。


牢屋の窄


信徒発見後、隠れて信仰を守ってきたキリシタンたちは、今こそ立ち上るべき時だと信じて信仰を明らかにし、寺請制度を拒否しました。

これが最後のキリシタン弾圧を招く結果となり、五島では久賀島の信徒が逮捕され牢に入れられることが発端となって、五島全土でキリシタン迫害が起こりました。

これを「五島崩れ」とよび、後世にまで残る悲惨な殉教の傷痕となりました。「五島崩れ」の中で最も陰惨で、犠牲者が多いのがこの牢屋の窄です。

わずか6坪の仮牢に・・・


広さ6坪(12畳)しかない仮牢に、幼児から老人まで男女200人余りも押し込めて、足もつかない状況なのに、その状態で8ヶ月もの間放置して、「キリシタンをやめれば出してやる」と棄教を迫り続けました。信徒たちは主だけを頼りに棄教を拒み、狭い空間の中で飢えと乾きと病気に苛まれ、気が狂うほど苦しまされて42名が命を落としました。

牢屋の跡には石碑と殉教者の墓碑。殉教地左手には教会があり、右手には監視所跡の碑が建てられています。何も悪いことをしていない無辜の民が、その信仰の純朴さゆえに苦しみを受け命まで奪われたことを思うとき、人の世にある醜さと美しさについて深く考えさせられます。

「我々も文明国になったから不平等条約を改正してほしい」と欧米に使節団を送りながら、このような野蛮な政策を続けていた明治政府が、キリシタン弾圧を知った諸国からのブーイングに音を上げて高札撤去するのは1873(明治6)年。昔も今も日本政府が外圧に弱いのは同じですが、迫害を受けたキリシタンの忍耐が、諸外国を動かす力になり、信教の自由が認められ、それが人権尊重への一歩となったのです。

日本の歴史という観点からも、ここで目に見えないものを信じ続けた人々のことは、もっと広く認識されてもいいのではないでしょうか。



監視所跡

殉教者の墓碑

殉教者の墓碑

殉教者の墓碑

信仰之碑

解説文

殉教者の墓碑

殉教者の墓碑

殉教者の墓碑

殉教者の墓碑

殉教者の墓碑

信仰之碑

信仰之碑

入牢者

入牢者

入牢者



 
現地への行き方
久賀島田ノ浦港から車で10分。住所は五島市久賀町大開です。

訪問の際は現地の案内や地図で所在地を確認してください。

インフォメーション


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