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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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長崎市永井隆記念館

                     長崎県クリスチャン記念館、浦上キリシタン関連地

平和を訴えた医師


「この子を残して」「長崎の鐘」などの著作を通して平和を訴えた永井隆を記念した資料館。

永井隆は長崎大放射線科部長として働いて散乱放射線による白血病にかかり、その上、原爆被爆の重荷の身体で何回か倒れながら、原爆後の救援活動に尽力した人物。カトリックのクリスチャンで、コルベ神父の主治医でもありました。


長崎市永井隆記念館


この記念館は、永井隆博士が子どもたちのために作った図書室「うちらの本箱」にはじまったもので、博士の直筆原稿や手紙、遺品を見ることができます。

博士の生涯をまとめたビデオの鑑賞コーナーやパネル展示も充実しており、2階には図書室もあります。

記念館の敷地内には、永井隆が生前に十数冊もの著書を執筆した2畳の病室券書斎「如己堂」が保存され、死の間際まで平和と愛を発信し続けた姿を偲ぶことができます。

帳方屋敷の跡


またこの場所は、徳川幕府が発布した禁教令によって、浦上村山里4郷のキリシタンたちがキリスト教の信仰を守るために結束した潜伏組織のリーダー「帳方(惣頭とも)」の屋敷の跡でもあります。永井隆の妻となった緑さん(原爆で故人に)は、初代帳方を務めた孫右衛門の子孫で、7代目吉蔵の孫にあたるのです。記念館入口と如己堂との間には「帳方屋敷の跡」の碑が建てられています。

孫右衛門はサンタ・クララ教会で信徒使徒職を務めていた人物で、日本から宣教師が追放され、神父が殉教していなくなっていく状況を見て憂え、自分たちで信仰の組織を作ることを考え、浦上村の人々に説いて回って実現した人です。いわば浦上キリシタンの立役者。孫右衛門は初代帳方となって信徒の面倒をみました。7代目吉蔵の時代には「浦上三番崩れ」が起こり、吉蔵は殉教しました。吉蔵の孫である緑さんは亡くなりましたが、信仰の命脈は永井隆に受け継がれ、信徒の魂である天主堂を再建させる力となりました。

永井隆と浦上天主堂


そもそも永井隆がキリスト教徒となったのは、大学に通うために偶然この家に下宿するようになり、大家の娘である緑さんから聖書をもらったことがきっかけでした。永井隆は戦地で聖書を読み入信。その後2人は結婚しました。ちょうどその頃は流配地から戻った浦上キリシタンが浦上天主堂を建て、生活が落ち着きを取り戻していた時代でした。しかし浦上天主堂は、原爆の被害に遭って瓦解。この時緑さんも命を落としました。

1945(昭和20)年11月生き残った浦上村の信徒たちは慰霊祭を行って、再建を祈願しますが、その道のりは遠いと思われました。永井隆は生き残った信徒らを力づけ、長崎の人々の心を癒すために、廃墟の中からアンジェラスの鐘を見つけて掘り出し、その年のクリスマス・イブに鳴らしました。

浦上キリシタンの子孫、それも潜伏キリシタンの立役者と殉教者の子孫から入信のきっかけを得て、クリスチャンとなった人物がいて、その人が多くの信徒が命を失った浦上で、天主堂の再建活動をし、再び教会の鐘を鳴らすようにしたのです。

このことを一つの流れとして考える時、何か目に見えない糸のようなものを感じずにはいられません。



記念館

永井隆の絵

展示解説

著作

展示品

写真

写真

著作

著作

著作

展示品

家族の写真

パネル展示

解説

永井隆

病床の永井隆

展示品

展示品

「平和を」

「如己愛人」

パネル展示

パネル展示

パネル展示

パネル展示

展示品

展示品

展示品

十字架

展示品

展示

展示品

展示品

展示品

展示品

自らを観察した

展示

パネル展示

パネル展示

パネル展示

永井隆



 
現地への行き方
路面電車「大橋」下車、徒歩10分。住所は長崎市上野町22-6です。

訪問の際は現地の案内や地図で所在地を確認してください。

インフォメーション


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