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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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原城跡

                             長崎県キリシタン関連史跡、殉教地

天草四郎と島原の乱


島原の乱で天草四郎時貞と領民が籠城した最終決戦の場。

島原半島はキリシタン大名有馬晴信が治めていたため多くのキリシタンが暮らしていましたが、慶長17(1612)年に晴信が処刑され、松倉重政が島原藩主となった時から状況が一変しました。重政は島原城を築くために重税を課し、常軌を逸した圧政を加えました。

寛永14(1637)年、妊婦を拷問死させ、聖画を踏みにじったことに憤慨した領民は、松倉重政とその子勝家への一揆を起こしました。島原半島の対岸にあたる熊本県天草でもそれに呼応した事件を起こし合流しましたが、島原城を攻め落とすことはできませんでした。

そのため天草四郎と島原天草の領民は、一国一城制で廃城となっていたこの原城に立てこもり、88日間にも及ぶ籠城戦を繰り広げたのです。


原城跡


徳川幕府はキリシタンの反乱とみなし、板倉重昌を上使として派遣し、鍋島藩、細川藩、黒田藩などから討伐軍を編成して原城を包囲しました。

しかしなかなか落城しなかったため、知恵伊豆とも呼ばれた知将松平信綱が2度目の上使として送られました。

信綱は原城攻略を兵糧攻めに転じ、一揆軍を極限まで追いつめてから総攻撃をかけました。

本丸跡の十字架


寛永15(1638)年2月27日、総大将天草四郎が討ち死に、翌日原城は陥落し、婦女子を含む2万7千人(3万7千人とも)が皆殺しにされました。

戦闘員でもない女性や子供までが虐殺された上、遺体を損壊され、城の残骸や石垣をその上に撒き散らして「封印」されていたことが、最近の発掘で明らかになりました。

これはキリシタンの妖術で復活することを恐れたものだと考えられています。

非戦闘員が隠れていた空濠


しかしその一方で、この一揆は単なる農民一揆であって信仰によるものではないから、彼らは殉教者ではないと解釈されています。

信仰に対する迫害がきっかけではないものの、キリシタンに対する圧政が引き金となっており、また幕府もキリシタン討伐のためだからこそ西日本の諸藩を集めて根絶やしにさせたのです。
一揆に参加し全滅した村は13村。

誰でも彼でも「殉教者」として認めてほしいわけではありませんが、数万もの非戦闘員がここまでついてきたのは信仰のゆえだったと思います。


ホネカミ地蔵

ホネカミ地蔵解説

空濠解説板

空濠

有明海

原城跡

原城跡

天草四郎の墓碑

天草四郎の墓碑

天草四郎の墓碑解説

本丸跡の像

池尻口門跡解説

池尻口門跡

討伐軍兵碑

討伐軍兵碑解説

天草四郎像

北村西望作

本丸跡の十字架

原城の解説板

原城跡碑

本丸虎口跡

発掘の様子

櫓台解説板

原城遺構



 
現地への行き方
島原鉄道「島原駅」から車で1時間ほど。国道251線沿いに行くと案内板があります。


訪問の際は現地の案内や地図で所在地を確認してください。

インフォメーション


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