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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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雲仙地獄殉教地

                             長崎県殉教地、記念碑

最も過酷な拷問が行われた地


島原城主松倉重政が、キリシタンを改宗させるために拷問を行った地。

寛永4(1627)年~寛永8(1631)年の5年間、男女の別なく手の指を切り、背中をたち割って、火山の吹き出し口(地獄という)から沸き立つ熱湯を柄杓で注ぎかけ、または全身を地獄の中に入れては出すという責め苦を行いました。
多いときには一挙に60~70人の信徒が熱湯の中に入れられました。


雲仙地獄殉教地


雲仙地獄の中の「お糸地獄」に殉教者を称える記念碑が2つ建てられています。

1つは長崎大司教区によって6名の名が記された大十字架。
もう1つは、徳富蘇峰の書による「聖火燃ゆ」の碑です。

この雲仙の殉教は、1669年に発行されたモンタナス著「日本紀行」(二十六聖人記念館所蔵)で紹介され、ヨーロッパ各地でその残虐非道さが広く知られることになりました。


雲仙国立公園

雲仙地図

殉教碑

碑文

雲仙地獄

雲仙地獄

雲仙地獄

十字架

十字架の碑文

聖火燃ゆの碑

殉教碑について

雲仙の様子

ここで行われたキリシタン拷問と処刑


パウロ内堀作右衛門らの殉教


ここで殉教した人の一人、パウロ内堀作右衛門は有馬家の家臣でしたが、信徒の代表として宣教師を匿い手伝いをしていました。1627年3人の息子と共に捕らえられ、子供たちは一本一本指を切り落とされる拷問の上、島原の海に沈められました。

息子たちの殉教を見せられていたパウロ自身も同じように指を切断され、顔に「切、支、丹」の3文字を焼印で押されました。息子たちの殉教の一週間後、島原の牢に入れられていた他の15人とともに、夜明け前に出発し、今村刑場の前を通り、登山道を雲仙地獄に向かわされました。

雲仙に着くと裸にされ首にロープがつけられ、「一人ずつ湯に飛び込め」と命じられましたが、自ら飛び込むことはキリスト教の禁じる自殺になることから、自分から入らないように信徒たちに言いました。
役人たちは怒り、「勇気のない奴め」とののしり、パウロを最後まで残し、逆さ吊りにして何度も泥湯に落としては引き上げました。

パウロは「ご聖体は賛美させられたまえ」と唱え続けていました。彼らが転宗を拒み続けたので、役人たちは体に石を縛り付けて雲仙地獄の泥湯の中に沈め、命を奪いました。
2007年パウロ内堀は福者に列せられました。


ジョウチン峰ら10人の殉教


パウロ内堀の殉教の3ヵ月後、島原の牢に捕らえられていた10人が牢内で行われていた拷問に屈しなかったてめ、雲仙に送られました。この中には2人の女性もいました。

前回よりもゆっくりと苦しませるために柄杓が用意され、裸にして座らせたり、横にならせた上に熱湯を柄杓でくんで注ぎかけました。声を出して祈ったり賛美したりできないように、今回は縄の猿ぐつわをかませました。

ジョウチン峰は動きもせず、声ももらさなかったので、怒った役人が体中に脇差で傷をつけ、その傷口に熱湯をかけました。開始から6時間も拷問したにも関わらず、誰一人棄教しなかったため、疲れた役人は10人を一ヶ所に集めて熱湯を浴びせ続けて殺し、全員が息をひきとると石を縛り付けて地獄に投げ込みました。


石田ピント神父らの拷問


寛永8(1631)年、アントニオ・ピント石田神父、バルトロメオ・グチェレス神父、フランシスコ・デ・イエズス神父、ヴィンセンシオ・カルタリオ神父、ガブリエル修道士、ベアトリスという貴婦人とその娘マリアの計7人が長崎奉行竹中重次によって雲仙に送られました。

この時の責め苦は小さな穴をあけた柄杓に熱湯を入れ、少しずつ体中に垂らすもので、刺すような痛みで体中が傷だらけになりました。マリアは1回で気を失い、石田神父は6回もこの責め苦を受けました。
凍てつく寒さと飢えにも苦しめられながら33日間拷問を受けましたが、一人も信仰を捨てませんでした。

再び彼らは長崎に連れ戻され、西坂で殉教しました。1627年から続いた雲仙の地獄責めは、どんな苦しみでも信仰を奪うことはできないことが証明され、この年をもって中止されました。


 現地への行き方
長崎空港またはJR長崎駅から急行バスで2時間ほど。レンタカーで行く場合は、上り坂が続くので排気量の多い車をおすすめします。

訪問の際は現地の案内や地図で所在地を確認してください。

インフォメーション


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