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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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本経寺

                             長崎県キリシタン関連史跡

強力に仏教徒だとアピールする大村家墓所


この地には元々「普門坊」というというお寺がありましたが、日本初のキリシタン大名となった大村純忠によってここに教会が建てられました。

その後、大村純忠の子で一旦はキリシタンになったものの禁教令の折に棄教した大村喜前(よしあき)が教会を打ち壊し、大村家の菩提寺として「本経寺」を建てました。
数多くの仏教宗派の中で日蓮宗を選んだのは、加藤清正の影響だったと言われています。


本経寺(ほんきょうじ)本堂


江戸後期に造られた本堂は、派手さはないものの重厚な趣で、平成16年に文部科学省より国の史跡に認定されました。

大村家墓所


本堂の向かって左手に隣接しているのが、大村家の墓所です。

この地を治めた大村藩は、大村喜前を初代藩主とし、12代大村純熈(すみひろ)まで一度も転封されずに明治維新を迎えました。

歴代の藩主とその家族が眠っています。

巨大な墓碑


キリシタンではないと広く知らせるために、墓地内に巨大な仏式墓碑を林立させています。一番大きなものは、6.95メートルもの高さがあります。

キリシタンだと疑われることを、歴代の藩主たちがいかに恐れていたかがわかります。

第22代純長の塔


22代純長の塔は6.5メートル。

石高2万7千石の小藩でありながら、このような大きな塔や墓石を建てることは異例なことで、大村藩の苦心のほどがしのばれます。

島原の乱後に整備された長崎街道が、不自然に迂回してこの寺の周りを通っているのも、キリスト教徒を脱却し、仏教徒であることを幕府に示す狙いがあったといわれています。


大村喜前の墓所


大村家19代当主で、初代藩主である喜前の墓所で、同じ霊廟に16代領主純伊(すみこれ)の墓もあります。

禁教令のさなか御家断絶を避けるためには、棄教もやむをえなかったのでしょうが、千々石ミゲル(天正遣欧使節の一人)に説得されて棄教したという喜前の言い訳には、狡さを感じます。

霊廟の参道両脇にそれぞれ建っているのが、喜前に殉死した家臣の墓。一人は朝鮮人だったということです。

また21代純信が亡くなった時にも切腹して殉死した家臣がおり、そのお墓が建っています。殉死した家臣を荼毘に付した際にその愛犬が火の中に飛び込んで殉死したということで、犬の供養碑が家臣の墓の横にあります



本経寺大村家墓碑群

大村家墓所の配置図

喜前についての説明

喜前の墓

殉死した朝鮮人の墓

殉死した家臣の墓

20代純頼の墓

宣教師を呵責した

21代純信の殉死者

殉死した家臣の墓

殉死した愛犬

クルス燈籠(?)と説明板


真ん中にあるあかり窓が十字架の形をしているので「クルス灯籠」と書かれているこの灯籠。

キリシタンでないことを大声で宣伝している大村家墓所に、キリシタン遺物を置くはずがありません。

説明板にもあるように「それは可愛い模様だったのではなかろうか」と思います(「可愛い」という表現が面白いですが^^;)。



説明板

石灯籠

石灯籠



 現地への行き方
  大村市街地に出て国道34号線を北上し、ガソリンスタンドと三和ファイナンスの間にある道に右折して入っていくと、左手に本経寺が見えてきます。



この地図は大体の位置を示すものなので、訪問の際は現地の案内や地図で所在地を確認してください。

インフォメーション


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