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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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放虎原殉教地

                           長崎県殉教地、記念碑

キリシタン大名大村純忠亡き後血の海となった放虎原


放虎原(ほうこばる)は江戸時代大村藩の刑罰場であった所で、1624年、1630年と1658年に日本に潜伏していた宣教師らと大勢のキリシタンが処刑されました。


放虎原に建つ碑


この殉教レリーフは、田中秀和氏の作。
日本人キリシタン7人と外国人宣教師3人が浮き彫りになっています。

中央で刀を両手で持ち上げている日本信徒の姿は、天に命を捧げることをあらわしているのでしょうか。

「日本二百五福者殉教顕彰碑」と書かれています。

裏側のレリーフ


碑の裏側にもレリーフがほどこされており、天使が信徒たちに訪れている様子が描かれています。

よく見ると、背景には多くの信徒たちが手首を縛られつながれて、牢屋に引き立てられていく姿も見えます。

下には「大村潜伏キリスト教徒殉教顕彰碑」と題が書かれています。


殉教碑

表面

裏面

13名の朝鮮人殉教者

解説板

解説板

現在の様子


ここで行われたキリシタン処刑


ここでは大きな処刑が合計三回行われました。記録に残っている大勢の処刑が三回というだけで、実際にはキリシタン逮捕の度小規模な処刑は何度も行われていただろうと言われています。

第一の処刑(1624年)


1624年8月25日、5人のキリシタンが火刑にされました。スペイン人宣教師ルイス・ソテロ神父、ペトロ・ワスケス神父、ポルトガル宣教師ミゲル・カルワリオ神父と、日本人のルイス笹田修道士、ルイス馬場少年です。殉教する際にキリシタンたちが見せる勇気に、民衆が感銘を受けることがあったため、処刑に先立って役人たちは、民衆がここに集まってるのを禁止しましたが、マチアスという日本人キリシタンが馬丁になりすまして刑場に紛れ込み、すべてを見届け報告しました。

火の熱さと恐怖に耐えかねていつでも棄教し、逃げ出せるように、殉教者たちはあえてゆるく縄で縛られていました。薪に火がつけられると、一同は賛美歌「テ・デウム(我、神をほめ)」を歌いました。縄が切れるとルイス笹田とルイス馬場は炎の中のソテロ神父の側に行き、祝福を求めました。すると神父は、「私こそ、あなた方の祈りによって神の祝福を乞わねばならぬ者です。あなた方は罪の汚れを知らない、神の鳩のような方です」と言いました。その光景を役人たちは呆然と眺めていました。

当時は日本の宣教方針をめぐって、イエズス会とフランシスコ会は対立していたのですが、イエズス会の非難の的となったフランシスコ会のソテロ神父と、イエズス会宣教師カルワリオ神父が、鈴田牢でともに祈り最後の告解を行ったとされること(一つの説ですが)は、私にはとても意義深いことに思えます。

第二の処刑(1630年)


1630年10月28日、トマス寺井嘉兵衛ほか6人が首を切られて処刑されました。1867年、ローマ教皇ピオ9世は、ソテロ神父ら5人とトマス寺井ら7人を、日本二百五人殉教者として列福しました。

表面のレリーフは第一と第二の殉教を顕彰したもので、裏面は第三の殉教を顕彰しているものです。

第三の処刑(1658年)「郡崩れ(こおりくずれ)」


徳川幕府による切支丹迫害は年を経るほど厳しいものとなり、1650年頃にはもう大村キリシタンはいないだろうと思われていたのですが、ある日大村の農民の一人が長崎の親戚の家に出かけていき、そこで「大村にはキリシタンの絵を隠した場所がある。又とても賢い神童がいる。天草四郎以上に有り難い話だ」と話しました。

ようやく天草の乱が鎮圧されたのに、再び同じような騒動が起こっては大変だと、厳しい詮議が行われ、1657年から翌年にかけて続々とキリシタンが捕らえられました。

いないと思われていた信徒は結局608人にも達し、ほとんどの者が農民で、大村純忠がキリスト教を奨励した時に信じるようになった者の子孫でした。キリシタンを逮捕したものの、これほど多くの人数を収容する牢が大村にはなかったため、長崎、島原、平戸、佐賀などの他藩にも信徒たちを送り、投獄しました。

608人を取り調べた結果、99人を許し、20人に永牢を申しつけ、78人は牢内で病死したので、残る411人を、1658年7月27日に五ヶ所の処刑場で一斉に斬首しました。五ヶ所のうち処刑された者が最も多いのがここで、131人が殉教しました。野原は一面血の海となったと、目撃したオランダ商館員が記録しています。

この第三の殉教は「郡崩れ」(郡=こおり、とは大村の地名)と呼ばれており、ここに設置された説明板に詳しく述べられています。



郡崩れの説明④

郡崩れの説明③

郡崩れの説明②

郡崩れの説明①



 現地への行き方
大村市街地より国道34号線を北上。協和町交差点を越えて、三本目の道を左折して進むと突き当たりにあります。



この地図は大体の位置を示すものなので、訪問の際は現地の案内や地図で所在地を確認してください。

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